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diary

映画と本

『ぐるりのこと。』(2009年)橋口亮輔監督

cinema

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シンクに白米をばら撒き、部屋のソファでうろたえる女(木村多江)が白米を炊けるようになるには、どうしたらよいだろうか?無論、電気代を払い、有能な炊飯器をこしらえるという話ではない。テーブルの上に置かれた雑炊を食べるとき、その雑炊をより美味しく食べるには、どうしたらよいだろうか?無論、高級な調味料と有名シェフのレシピではない。その問いに男(リリー・フランキー)は圧倒的な「存在」でもって応える。男(他者)が隣にいれば米は炊けるし、雑炊の向こう側に男(他者)がいれば、きっと雑炊は美味しい。映画の最後に炊けた米を上から覗く女、(作ることを最初は拒否していた)雑炊をテーブルの中央に挟み、向かい合う夫婦の姿をみると、この映画は欠落した何かを、二人が寄り添い合いながら、埋めていく長い(およそ10年)道のりだったことがわかる。

一方で、1992年から2001年の社会的な出来事が法廷画家の男の眼を通して、羅列されてゆく。事実的なもの(実際の事件に基づいた映画内の事件)がフィルムに入り込んでくるのだ。時代を思い返す、有効な手段であるし、(限りなく)同じ時代を過ごしてきた事実が観客を映画の世界へと誘う。それでは、あの法廷に立っていた被告人たちは、この映画にただ時代的な時間感覚をわれわれに与えただけかといえば、決してそれだけではない。木村多江と被告人たち、そこのどんな境界線があっただろうか。「社会全体に謝ってほしい」と叫んだ男と、木村多江のあいだにリリー・フランキーは何を感じただろうか。何を決心しただろうか。

女が精神のバランスを崩すことになったのは、おそらく子どもの流産になるだろう。「おそらく」としたのは、その瞬間的なものをカメラは収めていないからだ。時間は、次のカットでカレンダー、字幕、裁判の日付によって移ろいだことを告げる。その合間に起こった出来事を、まさに決定的瞬間なるものとしては収めず、既に起こったこと、として処理する。そのことで時間が残酷なまでに経過してゆくことを痛感するであろう。しかし、もう一つ、時間の経過を感じさせる「変化」をカメラは収めている。それが上に述べた、「米が炊けない→米が炊ける」「雑炊を拒否する→雑炊を食べる」これらが夫婦の変化を描いている。そのあいだ、夫婦は一緒にいた、その事実と共に。