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diary

映画と本

『キッズ・リターン』(1996年)北野武監督

cinema

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編集におけるジャンプカットが、たとえば「AがBに電話をかける」→「AとBがカフェで談話している」このようなカットの繋ぎは定番中の定番である。なにも、服を着替え、歯を磨き、車をまわし、ドアを開けるという動作のカットが差し込まれなくても、瞬時に「電話したから、二人は会っている」と観客は理解する。(もちろん、その観念を利用して、全く別時間軸のカットを入れることもあるけれど。)「キッズ・リターン」の、このシーンをみてみよう。「男がヤクザにボコられて、友達の通っているジムに駆け込んでくる。友達は鍛えた腕っ節を披露しようと意気揚々とジムを出る」→「ヤクザの顔のクロースアップ」→「友達が地面に倒れこんでいる」この流れで前述した通り、「友達もヤクザにやられたんだな」と思うわけだが、というよりか、その事実がただ提示されているのでまず状況を理解する。そのような瞬間的な事実を反射的に受け入れる前に観客は「可笑しさ」に気づく。さっきまで(=前にカットでは)ヤクザをボコボコにしてやろうと自信たっぷりだった若者が次の瞬間には(=次のカットでは)逆にボコボコにされている。殴る、蹴られるの瞬間を映さずに、カットが割れれば地面に倒れている。この「可笑しさ」(=面白さ)だ。

主人公二人の物語(と、いってもドラマ的な加速する展開を放棄していて、ほとんど停滞しているような印象を受ける。)と並列して同級生の漫才コンビの物語もそれとなく展開される。コンビは映画冒頭にステージ上でネタを披露しているシーンで登場する。その後、主人公二人が学生時代のときの話をして、映画は本題へと突入する。そこでのコンビは当時も漫才師を目指して漫才をやっているという設定である。主人公二人は、一方はあてもなくフラフラしているだけで、一方は友達にながされているだけ、なのであるがコンビは当時から漫才をやり、歳を取っても「やりたいことをやっている」ような印象を最後に受ける。しかし、果たしてコンビが主人公たちとの差異や、高校のクラスメイトそれぞれが歩む道筋の違いをただ証明していただけかといえば、そうではない。上述した「可笑しさ」がコンビによってテンポよく、停滞しているかのようにみえた物語を加速させている。というか、むしろ漫才のリズムによって物語の舵をとられていたことに気づく。同じく上述したカットの連続は、漫才にあるツッコミ、ここでいうなら「やられたんかい!」と思わせる余白を残しているし、「車に絶対触るなよ」と忠告するカットから→「(既に)車が燃やされている」カットにながれるのには「燃やすのかい!」と小さく突っ込まざるをえない。どれもカットの連続の中で起こったことだ。実は同じようなことが朧げな記憶をたどるかぎり、「3-4x 10月」(無免許でバイクの運転をするシーン)にもみられたし、他にもあるのかもしれない。映画の文法をそのまま模写するのみならず、「可笑しさ」まで組み入れてしまうことに、またもぼくは「北野武映画を観てる」と思う次第です。