diary

映画と本

『クリーン』(2004年)オリヴィエ・アサイヤス監督

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 主演マギー・チャンはいくつもの壁 ーー夫の死に取り乱すが部屋と外を区切るドア、刑務所の面談室で二人を遮るガラス、に直面する。これらは文字通りの壁になるのだが、カメラは意図してレンズと被写体(マギー・チャン)のあいだに障害物を介在させる。それはいくつもの風景であるし、目の前を通過する車(トリッキーを乗せた車もそうだし、その車を追おうとするが捕まらないタクシー)でもある。極めつけは前述したドアやガラスになるが、幾分象徴的な場面を除いても、やはりカメラは彼女と適切な距離を保って、バリアーのごとくガラスを目の前に置く。なぜならば、彼女は友人や義父の助言や気遣いに一切の感謝を述べず、余計なお節介とばかりに反発するし、心ここに在らずといった心境で素っ気ない返事をしてみせるのだから、これは観客の視線であるのだ。夫の死亡原因だけではなく、息子と一緒に暮らせない一要因にもなっているクスリを断ち切る気配もなく、周囲に降りかかる迷惑を省みることもなく、ただ「これが私の生き方だから」と言わんばかりに闊歩する彼女との距離がカメラは体現している。

では、ドア(=平面的な何か)が彼女を遮っていたとすれば、彼女の息子は祖父母が自分に内密にしようとしていることをすぐさま感知し、会話を階段の上から盗み聞こうと企て、その(自分の部屋の)ドアを軽々と開けてみせる。それこそが自分を解放させ、未来を手繰り寄せる術であるなら、いかにして彼女は「自分の力で開ける」ことができるかである。ロンドンからパリへの環境の変化を課してみたり(「フランシス・ハ」での弾丸旅行を想起させるような、あてのなさ)、生活するためのアルバイト、デビュー(彼女はミュージシャンだ)を果たそうと懸命になってみたり、それはもしかしたら自分を変えるための常套な手段なのかもしれないが、彼女が努力しているというよりかは、全て他者の協力(コネクション頼り)なしでは不可能なことであるし、それが上手くいかなければ結局他人のせいにするのだろうと容易に予想がつく。生活を変えるような努力をしているようで、実際は他人任せにドアを開けようとしてるのならば、冒頭の悲劇が繰り返されるばかりだろう。しかし、やがて(ついに来たるべき時とも言える)仕事を失った彼女は、ささやかながら踏ん切りをつける。自ら窓を開けクスリを捨てるのだ。
 
しかし、彼女なりのケジメをつけたからといって、これまでの行い全てが清算されるわけがなく、周囲の人間は、「変われる」と思っている彼女を「変われない」と呆れた口ぶりで突っ返すばかりである。ただ、義父は「人間は変われると信じたい」と、史上稀にみる寛容さを発揮する。その都度、的確なセリフを放つ義父の存在あってこそではあるのだが、やはり重要なのはカメラである。彼女は二度、部屋を出る。一度目は(亡き)夫との喧嘩中。その際(つまり彼女が 「変わる」ことを望む前)、カメラは外からの視点で彼女の姿だけを捉えるやいなや、すぐさま部屋の中へと戻る。二度目、最後のショットになるシーンでは、彼女の背後と共に雄大にひろがる景色を観客に一望させる。この先に何が待ち受けていようか。