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diary

映画と本

『海街diary』(2015年)是枝裕和監督

cinema

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海辺をじゃれ合いながら、散歩する四姉妹をみて、「ああ、この時間が永遠に続いてほしい...」と願わずにはいられない瞬間がある。そこに、この映画では一度も登場することのない、不在の父親はもちろん、母親も、あるいは親戚や義理の親なども存在せず、いるのは三姉妹(長女・綾瀬はるか、次女・長澤まさみ、三女・夏帆)と異母妹(広瀬すず)だけである。これまでの是枝監督作品を知るものならば、それらの作品の根底に根を張っている「家族」という主題、言い換えるならば、より広範な「家族的な共同体」を、登場人物たちなりに築く/築こうとする、姿を何度か目撃してきただろう。「海街dairy」もまた、その変奏である。

「ああ、この時間が永遠に続いてほしい」とはいったが、その希望は異なる視点からみれば、「現実は甘くない」と思う人もいるだろう。実際に劇中に何度か指摘される。たとえば、叔母は「子育ては甘くない。」次女の彼氏は「(異母妹は)やっかい払いされただけじゃない?」と少々毒づいてみせるし、いくつかの困難、悩ましい問題にも直面する。長女の彼氏がアメリカに行くと告げるシーンがそうである。これまで生真面目に働いてきた長女の苦労や努力などが、彼氏の「アメリカに行く、ついてきてほしい」宣言によって、あっけなく崩れさることを予感させる。決定打は三姉妹の実母が発する「この家、売りたいと思うの。」である。この発言に関しては、長女はすかさず反論をする。しかし同時に、女だけなんだからいつかは誰か(もしかしたら全員)家を出る、という古くからの習わし的な観念が立ち上がってくる。もちろん、そんなことはお構いなしに、「ああ、この時間が(この家が/この四姉妹が)永遠に続いて(建っていて/一緒にいて)ほしい」と思うのである。

物語は、父親の訃報を聞いて、山形に訪れた三姉妹と、そこの住まう異母妹の出会いによって、動きはじめる。どこにいても(仙台→山形→鎌倉)、自分の居場所を実感できなかった異母妹が、いかにして居場所を得られるか、肯定してもらえるか。観客はその瞬間に立ち会うことを、三姉妹との別れ際(列車のドアが閉まるタイミング)に宣言される「行きます。」という彼女自身の咄嗟に出た言葉にせよ、それゆえの決心によって、約束されている。すなわち「ここにいること」を実感することは「家族になること」を意味する。「自分がいるだけで、傷ついている人がいる」と鬱屈とした感情を抱え込む異母妹が徐々に解放されるかのように、家族に溶け込むキッカケとなるのは「記憶」にある。

たとえばそれは、三姉妹それぞれの女たちと、異母妹のあいだに、密やかに交わされる、秘密のような教えである。次女の小指だけのマニキュア、三女の作るちくわカレー、そして長女に教えられる丘の頂上。頂上のシーンは山形で異母妹に三姉妹が連れられた「お気に入りの場所」が反復される。ご飯をかき込む所作、梅酒を飲んだ後の立ち振る舞い、などもそうであるが、三姉妹の癖なるものが異母妹によって反復される。それこそが「家族」になりつつある、連続的な出来事であることを暖かな笑みと共にこみあげてくる。梅の収穫→梅酒作り、四姉妹で着る着物、なども同様である。海街diary」において「記憶」は四姉妹だけの範囲に収まらず、さまざまな場面で触れられる。そして、その「記憶」は更新される。桜のトンネルは二人の記憶になるし、海猫食堂のレシピ、梅酒にしこたまぶちこむ焼酎もそうだし...(きりがない)。

ともあれ、われわれはさまざまな「記憶」を受け継ぎ、伝承し、更新されていくのを実人生をもって、実感しているに違いない。では、その「記憶」を放棄、抹消しようと試みる人物は誰だろう。(上で述べている)「家を売りたい」と提案した三姉妹の実母がそれにあたる。家はそこに住まう/住んだことのある、人間たち全ての記憶を宿している。ここで、同じく家族と記憶にまつわる映画に触れたいーー「夏時間の庭」において、オリヴィエ・アサイヤスは祖母の記憶(=美術品、家などがそうである)を処理する際に、最後の選択となった家を取り壊すのではなく、孫娘に継承することによって、「記憶」を何とか紡いでみせた。望んでいたような光景ではないにせよ、それは確実に受け継がれていた。今作で家は最後どうなったかについては言及はしないが、長女は少し取り乱すように声を荒げ否定し、実母はそそくさと北海道へ帰ることになる。

写真が携帯やインスタグラムなどによって、より身近になり、記録することを、さも当然のような行いとして処理する時代になった。しかし、「海街diary」に写真を撮り、それをすぐさまアップロードするような人物は登場しない。(するとしても、即刻弾かれるだろう)むしろ、彼女たちは三女の彼氏(?)の「写真撮ります?」という問いに対し、拒否するし、実母に対する長女の反応をみれば一目瞭然である。古臭くなりつつあるが、それこそが人生ではないかと。忘れ去られてはならない「記憶」をめぐることに、寄せては返す波に(人生に)、四姉妹は無邪気に戯れながら向かってゆく。

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