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diary

映画と本

『風にそよぐ草』(2009年)アラン・レネ監督

cinema

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お気に入りの靴屋で、お気に入りの店員に選んでもらった靴を買うことに楽しみを見出す(40〜50代ほどの)女性をカメラは追う(ただの買い物のシーンなのにも関わらず、中々顔を映さないので、不隠な雰囲気すら漂わせている。)。人間は歳をとると、「安定の」とか「いつもの」とか、ルーチン化された、それゆえに気持ちの良い、何かに惑わされることのない、生活に満足するのだ。と、言わんばかりのシークエンスである。しかし、店を出ると、ひったくりに遭い、カバンを盗られてしまう。ここで「安定」が何かのキッカケで、簡単に崩壊していく予兆、可能性を、この映画は孕んでいると思わせる。本編前のショットがコンクリートを突き破る雑草のショットだったのが、ここで早々と思い返される。靴屋に並ぶ、色とりどりの靴。長々と映される引ったくられた黄色のカバン。衣装、家のインテリアもやけに原色、単色系が多い。いかにも衝動的で、パワーのある色がフレーム内で躍動している。他の色と混ざるのを拒否するかのように。

もう一人の主人公は、(ひったくり犯に捨てられた)鞄に入っていた財布を拾う男だ。これをキッカケに男女は繋がりを得る。なんとも、よくある話風なキッカケなのだが、そんな古典(映画によくある演出)の語り直しを試みているようなギャグがいくつかある。男の家に警察が訪ね、「女性に近寄るな」と注意を促すシーンで男⇄警察の顔のクロースアップを何度も反復し、焦燥をかりたてるようなカットの繋ぎ。歯医者の患者が痛いのサイン(手を挙げる)を何度も繰り返すシーン。映画館から出てくる人を向かいのカフェで待ち伏せするシーン。極めつけは20世紀フォックスのテーマ(ファンファーレ?)をぶっこむシーン。どれも、なんだか既視感に満ちている。さらにいえば、警察役のマチュー・アマルリック、歯医者のエマニュエル・ドゥヴォス、などアルノー・デプレシャン映画の常連が出ていることに、最も「ぼくはまた映画を観ている」という既視感にとらわれる。そして、付け加えておきたいのは、男の視線に女が偏頭痛を浴びるような、ちょっとコミカルなシーンがイエジー・スコリモフスキ監督の奇怪な関係、奇怪な能力的なものを持った人物たちが出てくるフィルムが想起してくる。

最初は男の一方的な想いが、女の前を素通りしていくのみであったのに、いつしかそれは逆転する。パラノイアックな感情が逆に功を奏して、同情を誘ったり、興味を異常に誘発させたりするものか?と懐疑的になることもできるが、何事も起こりうる前提として人生があると、冒頭の雑草のショットや、ひったくりシーンによって示唆されていたことを思うと、納得してしまう。というか、冒頭の段階にある、男が時計を修理を出したとき、「日付がずれるぞ」 という科白によって、既に何かしらのズレが生じていて、一度歯車がズレると全く違う人生に成り果ててしまう(成れる)ことを、映画は旋回する飛行機のように浮遊してみせてるのだ。