読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

diary

映画と本

『愛して飲んで歌って』(2014年)アラン・レネ監督

f:id:takemo1025:20151201154952j:plain

3組の夫婦はジョルジュという一人の男に惑わされる。どうやらジョルジュは、もって半年ほどの病気らしい。皆がジョルジュを心配し、ジョルジュの名をあげては彼について話すし、ジョルジュをめぐって右往左往し続ける。しかし、肝心要のジョルジュという男はついに一度もスクリーンに映し出されることなく映画は終わる。不在の男をめぐる映画は、たとえば既に存在を失った(死んだ)男が、たまたま同じ父親である事実によって、繋がりを得た三姉妹と異母妹の物語である『海街diary』、クラスメイトの一人である桐島の欠席によって、異なる階級層のクラスメイトたちの人生が巧みに交差する『桐島、部活やめるってよ』、などにみられる。日本映画においては、センセーショナルな物語構造になりつつあるのではないかと思う。不在の男について、3組の夫婦が語ることによって、その姿なき男の容姿、性格の輪郭を描き(描かせ)、観客に興味と想像を働かせるのは後者の作品に近しいかもしれない。『風にそよぐ草』の冒頭にある靴屋のシーンで、女の顔をなかなか映さなかったのが、あえて「みせない」ことによって、ある種の緊張感を生み出しているのが、ここにきて、一切「みせない」に達している。

舞台役者である登場人物たちが発するセリフは、時折前触れもなく、それが舞台のセリフの練習であったことを「セリフの途中よ」というツッコミによって、観客は「これは映画の中の人物たちが実際に交わす言葉ではなく、これから催すであろう舞台のセリフの練習だったのか」と、ややこしく思う。それが最初のカットなので、以後会話に対して、疑心暗鬼な気持ちが拭えず、何とも疑い深い目で映画を観ることを余儀なくされるのが、アラン・レネ特有のズレを生み出していると思う。さらにロケーションは全てセットなのだが、背景である壁が布で出来ているためか、あるはずのない壁の向こう側(真っ暗)を登場人物たちは自由に行き来する。単色の壁、コンクリートの模様をした壁を、あたかも家のドアを出入りするがごとく、人が平面の布を境界にして、現れては消えるのだ。フレームの左右を右から左、左から右へと移動するのは、当たり前のことだが、前後の奥行きを利用して、人が現れては消える。だから、ここで(スクリーンで)映し出される演技は全て虚構で、壁の向こう側はバックヤードなのかもしれない、だから、今演劇をみているのか?というメタ的な構造が何度も繰り返されてくる。『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン監督)でエレベーターがフレームの上下左右でもなく、中から人が突然出てくる可笑しさを演出していたかのように、『愛して飲んで歌って』では、布の後ろから(しかも音つき!)突然人が出てくる。そして、時計すらも精確な時間を刻まないし、どころか鐘が鳴る針の位置と実際の時刻すらズレている。おまけに最後までジョルジュは出てこない。なんと出鱈目なんだと、嘆きたくなる。最後にジョルジュを入れた棺は地中へと埋められるだろうことも、この映画にとっては必然ではないか。