diary

映画と本

『クレイジー・ママ』(1975年)/『怒りの山河』(1976年)ジョナサン・デミ監督

先日、観たばかりの『デス・レース2000年』(1975年)を機にロジャー・コーマンの名を知ったので、彼について、ぼくはあまり知らない。ただ、監督作や製作に携わったフィルモグラフィを眺めていると、かなり彼の特徴が分かってくる。DVDのパッケージデザインからもそれは伺える。いわゆるB級映画なのだが、彼の門下生が映画界に数多くいることに、そしてその人物たちが有名な作家ばかりで驚いた。ジョナサン・デミもその一人だった。今回の二作にロジャー・コーマンは製作でクレジットされているのだが、正直製作がどの程度関与しているのかは分からない...。しかし、彼の名がクレジットされていれば、ある程度のB級感(適当)は担保されるので、レンタル店の枚数特典の「あと1枚」に入れるにはもってこいだ。この二本を撮った後、ジョナサン・デミは『メルビンとハワード』という映画を撮っているのだが、それが(今をときめく!)ポール・トーマス・アンダーソンが影響を自身の口から発しているということで、かなり気になるがDVD化(VHS化も)されていない...。

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『クレイジー・ママ』(1975年)ジョナサン・デミ監督

女性主人公のロードムービーは『アリスの恋』(1974年)『テルマ&ルイーズ』(1991年)など、さまざまあると思うが、今作は借金を踏み倒した、主人公の女と母親、娘。したがって、母娘三代に渡る一家の逃避行だ。このような映画に「犯罪は犯罪だ!」などといった、つまらぬ倫理観を押し付けるのは野暮どころか、退屈な観方であることは重々承知のうえで、例えば『フローズン・リバー』(2008年)やダルデンヌ兄弟の映画に特出される、経済的な理由、貧困から「生きるために犯罪を犯すしかない」状況(自業自得ではなく、生まれ育った環境)に置かれる登場人物たちをみて、「しょうがない」とか「それしか方法がないのだから」と、スクリーンに映る犯罪劇を力の抜けた眼差しでみつめるほかないのだが、今作も一応はその部類に、恥ずかしげもなく、滑り込まんとしている。住む場所をなくし、一文無しになった女たち。一体この先どうなる...。なんてシリアスな空気は一切みせない。自宅(美容院)にある金目のものを回収されるや否や、さっそく、逆ギレして車を強奪、大胆不敵に銃をぶっ放し、小屋を襲撃するし、堂々と強盗に乗り出す。一世一代の逆転を心待ちにするかのように計画を練りに練り、ついに当日を迎えるとか、そんな緊張感もない。ただ車を移動させ、ついた場所に金の匂いがすれば、そこにゲリラ的に、とりあえず銃をもって突撃するだけのシンプルさ。その潔さがたまらなく可笑しい。確かに、「生きるために犯罪を犯すしかない」のだから涙を流そうが、流すまいが、やるしかないのだからやる、その開きなおりっぷりが痛快だ。

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『怒りの山河』(1976年)ジョナサン・デミ監督

単純明解な復讐アクション。不当な荒技で住民を土地から追い出そうとする炭鉱会社の男と悪徳議員vs都会から田舎に息子と戻って来たピーター・フォンダ、という構図。家族を失った哀しみが復讐へと男を駆り立てる。まさしく『マッドマックス』(1979年)も、このながれに沿って、作られたであろう。よくある設定ではあるが、今作を、そのよくある設定から逸脱させようと味付けされた要素は武器をアーチェーリーにしたことだ。『マッドマックス』なら縦に並ぶ二台の車を擦れ擦れの車間距離で走らせることで一定の緊張感を保たせたカーチェイスになるが、今作ではアーチェリーvs銃という、未だ相対したことがない世紀の合戦を披露してくれることを約束している。が、わりとアーチェリーは早々に姿を消し、銃に持ち替えてしまう。『グエムル 江漢の怪物』(2006年)のお姉ちゃんの、あのラストショットには遠く及ばず、もう少し見せ場があれば!と...。(だいたい、ロジャー・コーマン作品って90分以内に作られているので)おそらく時間の制約があると思うが「そんな、当たるわけあるかボケ!」と、せめて突っ込ませてくれる余白や、出鱈目なトリックショット的なのがあればと、願ってしまうのだが、あっという間に矢が直撃してしまうので、物足りなさが若干残りますが、一見の価値ありです。

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クレイジー・ママ [DVD]

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怒りの山河 [DVD]

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