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diary

映画と本

『キャリー』(1976年)/『フューリー』(1978年)ブライアン・デ・パルマ監督

 60年代から、未だ現役で映画を撮り続けている監督は数少ないが、ブライアン・デ・パルマはその一人だ。タランティーノが『ミッドナイトクロス』(1981年)と『キャリー』(1976年)を何度かオールタイムベストに挙げていることを小耳にはさむ程度に認知しており、彼の映画を過去に何度か観たことがある。正直、そのときはハマれずに、数本観て守備範囲外だなと安易にも判断してしまっていた。ところが最近、ノア・バームバックがドキュメンタリーを撮ったことを耳にし、改めて見返そうと思い直した。なるほど、彼らーー90年代、00年代に芽を出した若手作家たちが、学生時代のときにデ・デパルマは支持されていたのか、と思ってみたりすることができる。だとするならば、それなりの期待をもって、70年代〜80年代の作品をドキドキしながら(ホラーだし!)、観ました。

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『キャリー』(1976年)ブライアン・デ・パルマ監督

 『キャリー』を観ようが、観まいが、その名を知らない人はいないほどの知名度を既に獲得している、このホラー映画とジャンル分けされた映画は思いの外、ホラーではなかった。どちらかというと、泣ける青春映画だと断言してしまいたくなるほど、深い哀しみを含有した映画である。この間、ジョン・ヒューズ映画を数本観たが、彼はスクールカーストの存在を顕在化させた作家だという言及を何度かネットで目にした。確かに『ブレックファスト・クラブ』(1985年)なんてその最もたる例であることは間違いなく、彼/彼女たちは自分/他者の立ち位置を明確に線引きし、距離を測っていた。『キャリー』においても、そうである。いじめられっ子の女と、いじめる側の数人、学校のクラス内における関係性を既に映画に用いている。ただ、女はその距離を純粋がゆえに見誤っている。むしろそれが普通なのだが、生きていくうえで、その意識を外すをほうが今では難しくなっていることをここであれこれ言うほどでもないが、主人公はいじめる側の作戦に「何か企んでるかもしれない」とか、疑いの気持ちを持たずに、むしろ「人生が変わるかもしれない」とささやかな希望をもっている。しかし、もちろんそれを踏みにじるために作戦は粛々と進行するのだが...。華やかなパーティーに仕掛けられた、陰惨な罠が主人公を襲う、まさに一人の少女の栄光と挫折と形容したくなる、転落劇(文字通りバケツが落っこちる)を無理やり強いられる。また、同じ学校の人物たちに起きる出来事であるため、学校が舞台になっている。体育の授業で、コミカルな音楽と共に同じ運動(体操)を繰り返す生徒たちは『フルメタル・ジャケット』(1987年)さながら、軍隊の訓練をみているかのような演出である。

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『フューリー』(1978年)ブライアン・デ・パルマ監督

 最後に爆発したテレキネスを少女が、ほぼ覚醒的に炸裂させてしまったのが『キャリー』(1976年)であったが、今作は勿体ぶることなく、超能力をもってしまった女と男が序盤から登場する。『クロニクル』(2012年)なんか、この二本の影響受けてるんじゃないかなと思って、調べたらWikiに載っていて「だろうな。」と。能力者が感情を沸点間際まで高揚させると(だいたい怒りだけど)電飾やガラスが割れまくるパニック現象が『キャリー』(1976年)にもありましたが、今作にも。遊園地を歩く男を横から平行移動でとらえて、背景のアトラクション、電飾の数々がプツプツと破壊されていくのを収めたショットが素晴らしかった。そして、なんといってもジョン・カサヴェテスが俳優として出演し、ラストに用意された荒技によって、決着がつくところはショッキングな映像として心に深く刻まれることでしょう。超能力者の息子を拉致された父親が息子を奪還するため、あの手この手、それこそパンイチで強盗なんかをして、首謀者を突き止めるまでいくのが、物語の目的になりますが、そこに待ち受けているが(超能力によって)目の前にいる息子が息子ではなくなっている、ということ。よくゾンビ映画にも、襲われてしまった友達や恋人が自分に襲いかかってくるけど、殺さないといけない、みたいな場面がよくあると思いますが、そんな状況があります。これは人に何かが憑依する系において、最もある場面をドラマチックに昇華できる術なんでは。

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