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diary

映画と本

『女っ気なし』(2011年)/『やさしい人』(2013年)ギヨーム・ブラック監督

cinema

ギヨーム・ブラックの名をどこで知ったかを今は覚えていないが、DVDが出ていない作品の上映会を逃す手はないので、学生主催の上映会に行ってきた。この機会でギヨーム・ブラック監督に出会ったのか、二本の主役であるヴァンサン・マケーニュに出会ったのか、それはどちらでもあるのです。新たな発見に恵まれた二本でした。このように未公開作、あるいは未DVD化の作品を上映するイベントが近頃多いように思う。作品を観ることの貴重さ以上に体感できるものがある。いつもの劇場ではなくて、即興的な会場が醸し出す、ある種の特別感が、より作品を印象深いものにしている。

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『女っ気なし』(2011年)ギヨーム・ブラック監督

 ある季節に際して、主人公たちが「何処かへ赴き、そこで何かが起こる。」、ドラマをつくるうえで、最も事件を起こしやすいファクターであることを数多の映画が証明している。移動すれば、その各所で様々な出会い、別れ、などが風景的な美しさと共に移ろいゆくロードムービーを代表格にあげなくとも、それは「引っ越した家が最悪だった」と災難に遭遇するポランスキーの映画でも、そうであるように、人物たちが移動すれば何かが起こる、それは必然なのだ。ことに、ヴァカンスこそ必然的だ。燦々と照りつける陽光をフィルムに焼きつけ、収めることで、ある程度の「美しさ」を担保できる。あるいは、永遠に続いているかのような真っ白な雪が全面に広がる地平線を観て、いくばくの人たちが自然の「美しさ」をどう形容するかを競っている。ある田舎の風景、人気のない素朴な街の外観を我発見したりと、カメラに閉じ込めるその作業に、毎年驚かされるばかりである。映画において、主人公たちは(ともすれば我々も)想像にとどまった風景を確認しようと、ヴァカンスに出る。そこで物語が起こる。「一夏のヴァカンス」と想像されるに、「出会い」「恋」などを連想するに容易く、煌めやかな「期待」を仄かに抱かせるポジティブなイメージがつきまとうが、『ほとりの朔子』(2013年)において、ヴァカンスは二階堂ふみの視点を用いて、現地人の禍々しい実態を目撃すること余儀なくされるだろう。束の間の休暇を家族で過ごす、子供達の「楽しい思い出」となるはずだった『フレンチアルプスで起きたこと』(2014年)でもヴァカンスは、その「期待」からは程遠い試練となった。『女っ気なし』(2011年)は「期待」のイメージをまとわせた母娘のヴァカンスが軸となる。しかし、その「限定的な時間」ゆえに開放感を得た女たちの「一夏の体験」に終始することなく、どちらかといえば、この映画はファーストショットで、ドアの鍵すらも中々開けられない男の物語であることを伺うことができる。ヴァカンスに来た母娘と、現地に住まい、この二人に部屋をサーブするガイドマン的な世話役をしている男。考えるに、母娘を主役に据えるなら、恋愛劇にでも、犯罪劇にでも転がすことができるが、冴えない男が中心になっている。観光客の「限定的な時間」は、現地に住む男にとって無縁である。それは単なる日常に過ぎないわけだが、その残酷さを男は何度も通過しているのだろう。毎日、毎年、見ず知らずの女たちが彼と言葉を交わし、時間を共にすることになろうが、観光客はいずれ帰るべき場所(家)へと帰ってしまう。男が好意を抱こうとも、性格的にその気持ちを伝える真っ当な言葉や、手段を持ち合わせていない。男は「限定的な時間」を有した観光客相手に惑い、目を覚ましたときには、枕に残った女の香りに顔を擦りつけることしかできない。

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『やさしい人』(2013年)ギヨーム・ブラック監督

 田舎に里帰りした冴えないインディーミュージシャン。いや実際、冴えていないわけではないのだが、演じている男(ヴァンサン・マケーニュ)の容姿に加え、記憶(『女っ気なし』(2011年)でのヴァンサン・マケーニュ)がすぐさま引っ張り出され、冴えないと言ってしまいたくなる。朝、男は父親に起こされる。早朝に起こされた男は父親に「お互いのリズムで生活しよう」と持ちかける。ミュージシャンである彼がそのような言葉を発すること、それ自体はある意味真っ当である。彼は彼独自のリズム(音楽)を奏でることで、地元ではちょっとした有名ミュージシャンなのだ。しかしまあ、ロッカーがロッカーぽい発言をすることになぜか、くすりと微笑を浮かべてしまうほど、不可思議な抜け感を漂わすのがヴァンサン・マケーニュである。既にこの時点で「リズム」あるいは「メロディー」がどれほど、映画にとって、男にとって、重要であるかが示唆されている。そして、なんと、男に(仕事だから当たり前だが)興味を持ち、取材を行い、後に恋人になる記者の女の名が「メロディー」なのだ。男は自らのメロディーを創作することを職業としているうえに、生活のリズムを他者と明確に区別している。しかし、女が現れてから、男のメロディーは女のメロディーへと波長を合わせてゆく。この二つのメロディーは果たして、軽やかで、親密なグルーヴを奏でられるのかと、不安をよぎらせる場面がある。女が通う女性限定のダンス教室に男は悠々と入り込む。二人が奏ででいるのは、良質なグルーヴだと信じて疑わない男は、レッスン終了後に音楽をかけてくれと頼み、ひとりでに可笑しな(乱暴で粗雑な)ダンスに興じ、教室に床を叩きつける音が虚しく響く。その音は誤って介入してしまったノイズにも聴こえる。やがて女は消える。冒頭、男は女の連絡先を知ろうと事務所のガラス扉を二度開け、女性限定のダンス教室の扉も開けたが、男が目撃するのはファミレスの中で、楽しげに食事をしている女と新しい恋人の二人だ。その間にやはりガラスの壁が立ちはだかっていて、男は再度、ノイズ(銃声)を交えて介入しようと企む。物語は急にフィルム・ノワールの質感を帯びる。ピュアネスなメロディーを奏でる女に、侵食し包み込むようにかさばる、男のノイズは序盤こそ不器用な男の空回りをみているようで、微笑ましかったのにも関わらず、ここにきて銃声というノイズを男は奏でようとするのだ。

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