読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

diary

映画と本

The best films of 2015(1/2)

年間ベストと銘打っているものの、製作本国の公開年と日本公開年のタイムラグが数年あるのは当たり前であったり、動画配信サービスの台頭で、配信スルーやDVDスルーになった映画の数も多いだろう。小規模でやっている上映会で密かに未公開作が封切られていたり、何をどういう基準で選別するのか、年々ややこしくなるばかりではあるが、とりあえず2015年に劇場初公開日を迎え、監督の現時点での最新作であること、劇場で観た、という事実を基に年間ベストを選びました。

***

5.『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)ポール・トーマス・アンダーソン監督

f:id:takemo1025:20151218001709j:plain

 今年度、これほどまでの公開初日を待ちわびた映画があっただろうか。この先、彼の新作をリアルタイムで体験できることを約束されているのを嬉々に受け止めたい。いわゆる探偵映画である。『三つ数えろ』(1946年)『チャイナタウン』(1974年)などが引き合いにだされ、果てはロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(1973年)を持ち出さずにはいられない。しかし、ロング・グッドバイ』とは真逆に終わっている。ある事件の調査を重ねるうちに、自らの手では届きようのない深い闇の正体が垣間みえるという筋は、先述の作品たちと同様である。敏腕探偵(あるいは刑事)が事件を解決して一件落着な定式を放棄し、逸脱するばかりであるのは、やはり麻薬的に状況を曇らせる。一見、プロフェッショナルな捜査方法ではないし、麻薬で頭がフラフラしている間に物語は進行している。そもそも、冒頭の(事件の調査を依頼する)女の登場の仕方からして、それは(悪い)夢のように、黙々と立ち籠める煙のようなのだ。探偵は次第に「黄金の牙」とよばれる組織の存在を知るが、もちろんその黒幕の正体や、姿を消した男の理由など、さしたる快感を得られるほどの「謎解きもの」に終始していないことを既に述べている。今作は、そのぼんやりと描かれる黒幕の輪郭の円環状をユラユラと踊る、キャラの立ったやつらを眺めるほかない。探偵もその一員であることは言及するまでもないが、彼は仲間を救う。まるで夢のような時間が支配し、保たれるのだ。

 

 4.マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)ジョージ・ミラー監督

f:id:takemo1025:20151217215713j:plain

あなたがこれまでの『マッドマックス』と名のつく3作を観ていなくても、それはさして問題ではない。劇中、申し訳程度に男がトラウマっぽい過去に苛まされていることを示唆するフラッシュバックがあるが、その細部を知ることに役立つにすぎない。(もっとも、ぼくは『サンダードーム』的な世界観が継承されていることに、思わず笑いがこみ上げた。)ある理想郷を男と女たちは目指す。理想というのは往々にして幻想にすぎない。こと映画においては、男女の逃避行やロードムービーの行き着く末は「死」であることを何度も反復しているのにも関わらず、その理想を夢見ることの可能性を未だに捨てきれないのが事実である。だからこそ、マックスたちに理想を託す。ましてや、一人の権力者に牛耳られた、荒廃しきったクソな世界を脱出できるなら、それ以外の光景は全てマシに等しいのではないか。そう確信めくうちにふと、思い出す、やはり理想なんてない。そもそも理想に辿りついたところで、満足できることもない。ただ「ありえない」「退屈だ」と御託を並べるだろうし、このご時世にそのような「ただのサクセスストーリー」に人々は肥えているはずだ。だとすると、辿り着く場所は一つしかない。現状を脱出するのではなく、(結果的に)現状を内から変えるという、ある種奇想天外な、機転を利かせた進路変更であるというより、「より生き続けられる方法を選ぶ」に等しいその進路変更は切実だ。哀しみだ。これまでも、これからも、希望を持てない、だがしかし生き続けるしか道はないのだ。何度も戦車は停滞し、道を塞ぎ、一本道を走るのではなく舗装されていない道を脱線しながら、がむしゃらに走る続ける。

 

3.海街diary』(2015年)是枝裕和 監督

f:id:takemo1025:20151217214544j:plain

 

2.『イマジン』(2012年)アンジェイ・ヤキモフスキ監督

f:id:takemo1025:20151217214724j:plain

登場人物たちの大半は盲目の男たちと、女たちである。この設定を聞くと不安を抱かざるを得ない。不安を駆り立てられる理由の一つに、このような前提をもった映画は往々にして非日常を生きる人間が、日常へと歩み寄る健気さを見せびらかすことに陥ってしまうのを何度も目撃しているため、その凡庸なる安易な物語が語られるのではないだろうか、という危惧である。あたかも、普通じゃない人たちが、ぼくたちの普通の世界に近づいている、とでも言ってるかのような映画を、もう観たくはないのだ。だが、盲目の人たちの他に、彼らをケアするような介護士、あるいは絶対的な信頼を担ったお医者様など、登場しないに等しい。あくまでも、盲目の彼/彼女たちが無謀な行いによって、死んでしまうことを避けるような注意の視線を配っているだけだ。よって、観客が目撃するのは主人公である彼/彼女たちの生きる世界である。目の前にいる人、目の前にあるモノ、そのどれもに確実な証拠を得られない彼/彼女たちの世界は常に懐疑心がつきまとう。一人の男は指を鳴らし、音の反響で周囲にどうような形状の物体があるのかを、人の足跡を聴くことで、道に段差があるのかを、電柱のような障害物が道を妨げてないかを(あくまでも)推測することができる。それでもなお、近くのカフェにいくことですら命懸けだ。そして、海の上をまたぐ橋では、海は死の意味を、橋の上は生の意味を宿らせる。その生死の境目を歩く男を俯瞰ショットで捉える光景は雄弁に語りかける。目の前にいる人が同じ盲目なのか、どうかの判断もくだせない彼/彼女たちは想像する。なによりも想像の助けとなるのは音だ。だからこそ、ある疑いに向けられた男と、疑いをかけた彼/彼女たちは、ある音に歓喜の声をあげる。

 

1.『フレンチアルプスで起きたこと』(2014年)リューベン・オストルンド監督

f:id:takemo1025:20151217215020j:plain

家族で過ごす休暇が、とんだ試練となる。夫のとった行動から「男性らしさとは」という問題が立ち上がってくる。日本のテレビドラマ『問題のあるレストラン』(2015年)においても、このようなステレオタイプな価値観に真っ向から挑むような作品が日本でも近年増え続けているように思う。とりわけ多いのは「男性社会に対して」だったり「女性差別に対して」だったり「男性が抱く女性像に対して」だったり、主に女性からのアプローチが多かったのだが、『フレンチアルプスで起きたこと』では、「男のあるべき姿は理想にすぎない」と化けの皮を剥がされたような痛快さがある。夫が卑劣であるか、どうかは曖昧である。夫のとった行動は賞賛されるものではないが、自然災害を相手にしたとき、人はどのような行動をとるのか、という極めて動物学的な、生き残るための本能による行動原理に由来するため、「致し方ない」と(わだかまりは残るが)片付けることができる。しかし、夫は自分のとった行動を決して認めようとはしない。妻の怒りはここにあるのではないだろうか。「百歩譲って、忘れることにするから、せめて認めろや」と妻は内心思っているだろうが、夫の方はその事実を認めること、すなわち、夫のあるべき姿を自身から完全に取り除いてしまうことを意味し、存在理由を消しかねないのだ。だから男がそれを認めたとき、夫ではなくなり幼児のように、ただ泣きわめくことしかできなくなってしまったのだ。もう一度、男が(というか、この時代において失われつつあり)「父性」という記憶の隅に追いやられた言葉を奪回しようと、チャレンジするとき、それは明らかに女のアシストがあり、否「諦め」があるのだ。そして、観客は身ぐるみ剥がされた男の力の抜けた表情を、自らの顔面に憑依させ、疲弊しきったところで、女のある行動を目撃することになる。