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映画と本

『パロアルト・ストーリー』(2013年)ジア・コッポラ監督

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『パロアルト・ストーリー』(2013年)ジア・コッポラ監督

 「繊細な感情を」とか、「若者のリアリティーを」とか、青春映画の宣伝文句で何十年も繰り返し用いられているテンプレがありますが、他にないんですかね。果たして、その「リアル」とやらは誰が決めているんでしょう。(製作陣の)アラサー周辺の方々が、現時点から過去を振り返り「あのときはこうだった」と、客観的にみたときの心情を描いているとすれば、なぜ現代の若者を描いていることにしており、「十代のリアルな映画」と言えてしまうのだろう。どうであれ、そのような(抗いようもなく)美化された過去の時間をノスタルジックに描写した青春映画がたとえば『バッド・チューニング』(1993年/リチャード・リンクレイター監督)であったり、『ウォールフラワー』(2012年/ステファン・チボスキー監督)であると思う。対して、どうもコッポラ家系という血筋が必然的に因果していると思っているわけではないが、『ヴァージン・スーサイズ』(1999年/ソフィア・コッポラ監督)は「もっと青春ってダサいもんじゃね」というか、「あなたは13歳の女の子じゃないんだからリアルだの繊細だの言うなや」という態度が通貫しているのが、なんともシニカルで、「そりゃそうだけどさ」と笑いと共にため息を吐きたくなる作品であったのだが、『パロアルト・ストーリー』を位置付けるならば後者に属するだろう。一方通行を逆走する男と姉妹たちが重なってみえる。

 大人は(確かに経験則にならえば、本当にそう思いますが)「お前はなんでもできる」と若者に言うけれど、一方で「はやく進路を決めろ、間違った道を歩むな」と釘を刺したりもする。その狭間で揺れ動く、あるいは、道標などあるはずもない道を前にして、とりあえずY字路の前をクルクルと漂うか、立ち止まるか、せいぜい小刻みに前進するのみである。だからといってその、なんてことない友達と過ごす日々をくだらないけど最高だったよな、という感慨にひたるわけではなく、あくまで「わかんねえよ、どうすれば」と、立ちすくみ、それでも前進するか、後退するか迫られる若者をカメラは映す。

往年の青春映画に型に逸れることなく酒、ドラッグをこしらえたホームパーティーのシーンが用意されている。これはティーンにとって、親が居ない間のパーティーが、自宅の庭のプールが、その場で築かれる一夜の(はずの)関係が、どれだけ普遍的であると同時に、待ちに待った特別な行事であるかは言うに及ばず、「またやってるよ」という凡庸な指摘ではなく、青春映画が描かなければならない通過儀礼のごとき、ジア・コッポラ監督の純粋な映画史に対するアプローチに由来しているといえよう。そのパーティーで流れる音楽に自然と注目が集まることは避けられない。さらには映画のスコア担当がデヴ・ハインズなのが音楽の使い方がどうこうの前に、そのようなコネクションが生まれるアメリカの文化的土壌の越境性に感嘆とする。

エマ・ロバーツを観るのは『なんちゃって家族』(2013年/ローション・マーシャル・サーバー監督)以来になる。まずはじめにジア・コッポラの名を知り、今作を認知したのだが、ついに話題作といっちゃなんだが、正統派な作品にどうも恵まれていない印象を受けるエマ・ロバーツが主演と知り、おこがましくも安堵した。他方で、『スプリング・ブレイカーズ』(2012年/ハーモニー・コリン監督)を観て、ジェームズ・フランコを知った筆者はその役柄の振り幅に同じ役者とは思えない衝撃を受けた。

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