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diary

映画と本

『オデッセイ』(2015年)リドリー・スコット監督

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『オデッセイ』(2015年)リドリー・スコット監督

火星に取り残された男が「いかにして生還するのか」よりも、仲間の「助けを待つあいだ、どうやって生き延びるか」という、「火星サヴァイヴァル・延命ガイド」的な映画である。「いかにして生還するのか」を語りたいならば、火星にたった一人取り残された男(マット・デイモン)が、実は政府や、NASAあるいは誰かによる黒い陰謀=「人体実験だった」とか、周到に仕組まれた仲間同士の決裂が、男が一人になってしまう理由にすればよいし、それでも男が取り残された理由が誰かの策略じゃないにしても、地球にいる同僚、上司たちが救出を計画する際に起こりがちな/起きそうな「たった一人のために、莫大な時間と費用をつぎ込んでまで、救出するべきなのか?」という倫理を揺さぶる問題を提示すればよいのだが、あまりそうは感じられない。計画はなるべく迅速に、一刻も早く救出せねばならないという、当たり前といったらそうなのだが、映画にしてはいささか迅速に対応されるのである。宣伝文句通り(「70億人が彼の還りを待っている」)誰もが男を待っている。

男は一度死んでいる。そりゃ、助ける術もなく事故(嵐?)に巻き込まれ、火星に置いてけぼりにしてしまったのだから生きているわけがないと誰もが思うはずなので、男は死んだと、NASAは発表するのである。だが後に分かることだが、彼は生きていた。ここで容易に思い浮かぶことは「一度世間に公表してしまったのだから、今更やっぱり生きているなんて言えない。信頼に関わるのだから。」という、ありきたりな隠蔽だろう。よもや、ここ日本でも実際に報道されている企業の隠蔽工作のような展開だ。だがそれは起きない。そういった陰謀とか、諦念という言葉を映像化するのなんて、リアル(現実)で起こっちゃってるから、それこそ汚職なんて映画の題材にするほど「映画みたいだ!」とはならないよね、といった具合に避けられる。端的に「見飽きた」と言ったほうがいいだろうか。それよりも「火星で生き延びる方法」の方が興味をそそられる事実に対して、率直に映画はシフトする。

では、実際どうやって男は生き延びることができたのだろう?もし、「火星サヴァイヴァル・延命ガイド」本があるのなら「植物学者になろう!」という章があるだろう。要するに最悪でも、(酸素と)飯があれば生き延びられる。だからまず野菜を育てることを覚えよう、となる。場所は宇宙なのだが、男は「じゃがいもを育てる」「水をつくる」ことで生き延びる、あまりに原初的な方法にすぎるので思わず笑えてしまう。それだけだと言っても過言ではない(付け加えるなら、宇宙船に関する知識だけども。これは前提か。)。しかし、それは物理的にすぎないのではないか?とも思えてくる。飯があって、寝れても、一人は辛いだろう。まず一人で(燃費的に)自力で還れるはずがないので、助けを待つことしかできない。どうやって、そんな微かな可能性を信じて、とりあえず生き続けようと思えるのか、素朴な疑問だ。だって、男には地球で待つ最愛の妻、子供、両親とか、そういった「俺の還りを待ってくれている人たちがいる」という切実な支えがないのだ。個人的な支えと言っていいだろう。「じゃがいもを擬人化しろや!」とツッコミを入れはしないが、なにかそうでもしなきゃ、男のメンタルは平常を保てないのではと、漂流した(『キャスト・アウェイ』別名=無人島でたった一人で生き延びる方法、での)トム・ハンクスを想起せざるを得ない。

 ともあれ、男の還りを70億人が待っている、ということになっている。男が内心で「世界が俺に注目している!」とは描かれないが、控えめに言っても「ここで死んでもあれだし、まあ生き続けたいし」程度の心境だろうか、しかしこれはさほど重要ではないかもしれない。なぜならここではある図式が重要だからだ。「取り残された男」→「救出に奮闘する仲間」→「救出劇の中継を見て熱狂する大衆」いかにもアメリカ映画的だ。言い換えるなら、これはいかにもトニー・スコット的だ。ある企業のことより、ある個人のことよりも、全体を描いていることに気づくのだ。だから見終わった途端にアメリカ映画を観たな、ハリウッド映画を観たなという感慨が込み上げてくる。いつしか個人的な、半径50m程度の映画(その良し悪しではなく)を見過ぎていたことに気づかせてくれる稀有なハリウッド映画ある。その巨大さに包み込まれるは案外気持ちの良いことかもしれない。