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diary

映画と本

『アイアムアヒーロー』(2015年)佐藤信介監督/『僕だけがいない街』(2016年)平川雄一朗監督

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アイアムアヒーロー』(2015年)佐藤信介監督

 映画秘宝を熱心に読んでいなくても、無類に楽しめる映画である。いわゆるゾンビ映画と括られる『アイアムアヒーロー』を、より楽しむためのサブテキスト=ゾンビ映画本は巷に数十冊はでていると思うが、僕は一冊も目に通していない。だが、ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ・トリロジーだけは観ているくらいの予備知識というか、ゾンビ・トリビアというか、ゾンビ対処法というか...。とかく、単純に「長澤まさみ有村架純出てるし観るっしょ!」くらいの気軽さでも楽しめるということである。

おそらく、ゾンビの生態に着目するならば、走るのか(遅いか、速いか)、喋るのか(唸りか、特定の単語か、スラスラ喋るか)、襲ってくるのか(有害か、無害か)、といった細かい行動様式を分類して、この映画のゾンビはこうくるか!的な楽しみが一方ではあると思う。それに倣えば(勝手に僕が言ってるだけですけど)『アイアムアヒーロー』のゾンビは、そのゾンビが人間だった頃に日常的に繰り返していた行動を場所、環境、相手などの諸条件に関係なく、ただもうスイッチが入ったとしかいいようがない自動的な振る舞いによって再演している。買い物が好きだったやつは(貨幣もモノも意味を剥ぎ取られているわけだが)買い物をしようとするし、高跳びの選手だったやつは何もない平地で高く飛ぼうとする。それにゾンビではない、非感染者である人間たちが一時的に逃げ着く場所がショッピングモールであるのは誰にとっても納得がいくし、「そりゃあねえ」と腑に落ちる戦法である(そもそもゾンビが来たらショッピングモールだろっていう意識が芽生えること自体可笑しなことなんだが、ここまでくるとゾンビの中にもそういう知識が無意識下に働いてショピングモールに行進し出すかもしれんという謎の疑義が発生する。)。ここで、律儀に何故ショッピングモールかというと、衣服、食料、土地といった衣食住の安定はもちろん寝具、武器、キャンプ用品とか、とりあえず数ヶ月凌げるくらいの生活用品が揃えられるからである。

 狂ってるのは、人間か?ゾンビか?といった類の常套句もゾンビ映画には用いられるテーマであるだろう。いや、ゾンビに限ったことではなく、「狂ってるのは俺か、お前か?」みたいな構図は度々見受けられるテーマである。(その結果往々にして「人間の愚かな部分が〜」といった物言いが横行しているが...。)今作にそのような対立構造がハッキリと浮かび上がるのは、主人公・鈴木英雄(大泉洋)と早狩比呂美(有村架純)が逃走の末にたどり着いたショッピングモールにて出会った、井浦(吉沢悠)たちのコミュニティーとの衝突の際だろう。先にも述べたが、感染症によって混乱の域をも超えたパニックに陥っている国家に経済も法律もへったくれもない。英雄は(趣味が射撃のため)銃を持っているが、この後に及んで公共の場で発砲するのは銃刀法違反がどうのと気にすることや、高級品の時計が本来具有しているブランドネーム、金銭的価値が無効化され、身体保護装備になるという倒錯的な様相がなによりの証左である。このような場でやはり避けようもなく起こるのが、そのショッピングモールに集まった人たちによる天下取り競争だ。ここで、醜い争いを起こす人間とゾンビ、どっちがマシなんだろうと思えてくる。しかし、今作に天下取りは重要な意味をもたない。それはそれで「こいつクズだな〜」的な面白さはあるわけだが、仁義もクソもなくなった世界でそれでもなお、(感染症発生以前の)旧世界の生き方を曲げないという英雄の決断が観るものに迫ってくるだろう。なによりも対ゾンビ、対他者に圧倒的なハンディー(銃)を持った英雄は全く威張る素振りすらみせ(られないと言ってもいいのだが)ない。対立が生む抑圧、そしてそれが新たに生む抑圧、ふと気づけば協力して生き残ることではなく、誰が俺の犠牲になってくれるか、誰がここで威張れるかといった、くだらない張り合いに共同体の理念がすり変わってしまう危機を、ほぼ無意識に性格上当然のように英雄は加担することなく生活する。だから英雄は撃た/てないし、駐車場で再会したサンゴ(岡田義徳)と平然と共に(シンプルに仲間は多いほうが良い)逃げようとする。

 とはいえ、英雄が撃たない理由が単に決断できない性格ということは度々独白によっても証明され明らかなわけだが、やがて、おとずれる発砲の瞬間までの禁欲的な時間を引き延ばし、そして誰もが望んだといえる、今作でも数回ほど英雄に強いられる「やっぱできない」「やれるだけやってみる」という二択のあいだで引き裂かれる英雄の決断が後者に傾いたときに弾ける弾丸と顛末を目撃する快感は、やはり映画において英雄が発砲を渋る要因でもある。更には、その瞬間に高級腕時計はゾンビからの噛みつきを防御する機能を経て、新たな意味を獲得するのだ。

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僕だけがいない街』(2016年)平川雄一朗監督

 お気づきの通り有村架純2本立て。月9ドラマ『いつ恋』を観終えたので、有村架純の恵まれた(優れた作品に出会う)才能を確認する作業です。『アイアムアヒーロー』ではZQNに甘噛みされ、半面ZQNとなった有村架純に用意されたセリフは微々たるもので、彼女は寝てるか、生きた立像になっており、今作では半分は主人公の幼年時代だったので、有村架純ゲージは伸び悩みました。これは『ビリギャル』を観なければなりません。

さて、『僕だけがいない街』の脚本・後藤法子氏は『いつ恋』の同クールで放送されていた『家族ノカタチ』の脚本家です。このことが今作を観ようと思った、もう一つの要因です。『家族ノカタチ』は、映画『ハッシュ』(2001年/橋口亮輔監督)の主人公たちが「周りはどうこう言うかもしれないけど、やれるとこまでやろう」と三人で生き(てみ)ることを選び、彼らなりの幸せを、永遠ではないかもしれないけど、もしかしたらどこかで破綻するかもしれないけど、手探りで探す試みを緩やかに肯定してみせた関係を想起させる良作でした。他者と他者が出会うことで生じる摩擦をシニカルに描くのではなく、摩擦が起こることなんて前提としていて、だったら一瞬でもドライブする瞬間をその都度肯定していけばいいじゃないかと、まさにその瞬間を切り取っていたのです。『僕だけがいない街』にもそういった描写があったにはありました。有村架純の一貫した「なにが信じられるのか、ではなく、なにを信じたいか」という態度ではあるが、いささかこの動機が弱いようにみえた。特段、この態度の不明瞭さだけにかぎったことではないが、他人を思いやる気持ちとか、無条件な優しさとか、無条件な素直さが、引っかかるのです。

とはいえ、フィクションであるからにはある種ご都合的になるのは、一向に構わず、むしろそんなこと映画を観る度に、揚げ足をとるように、ここに現実味がないだの、言うのは滑稽とすら思える。だが、それはそんなことを気にさせない饒舌さ、荒唐無稽さなどがあってのことだと思うので、今回ばかりは思ってしまった。