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diary

映画と本

『疾風ロンド』『少女』『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016年)

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『疾風ロンド』(2016年)吉田照幸

 阿部寛は不思議な役者だ。イケメンなのか、そうじゃないのか扱いがよく分からない。メンズノンノのモデルとして活動していたのだから、千葉雄大や坂口健太郎といった今や王道の出世コースといって誰も疑いはしないであろう先駆的存在だ。スッポリと生真面目さを欠いた、抜けた演技をみせているせいか、イケメン的扱いを受けてないように思う。とはいえ、イケメン扱いをうけていようがいまいがどっちだっていい。

 重要なのは彼の身長をどう活かす/演出するかである。身長が高い人をみると、なんだかマヌケな印象を受けることはないだろうか。スポーツにその高身長を活かすわけでもなく、すらっとした高身長に似合うロング丈のコートを着たりするなど、とくに高身長であることの利点を使わずに、なんだか低い天井を煩わしいと思ったり、子どもがスゥーっと入っていく狭い空間に身体がおさまりきらず入ることができない、そんな高身長の人をみて、生き辛そうだと思ったりする。(もちろん低い人にだって、低い人なりの生き辛さはある。)

 身体を折りたたむことで、やっと空間におさまってみせたり、身体を屈ませることでドアを通過したり、その屈折を身体と人生どちらにも共通することとして描いた『海よりもまだ深く』の阿部寛の使い方は見事だった。しかし『疾風ロンド』において、阿部寛は床につまずく。確か、冒頭の家の玄関口のとき(その後同じシーンでフレーム外で2回目の転倒を憶測させるセリフがあった。)、食堂を勢いよく出ようとしたとき、しまいにはスキー場で転けて足を怪我する。だから、彼は後半ほとんど動かないし、動けない。転けるのに身長など関係ない。いささかその演出が気になってしまった。

 

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『少女』(2016年)三島有紀子

 『貞子vs伽倻子』にも出演している山本美月。やっぱり、可愛い人には良い作品に恵まれてほしいという謎の親心を抑えることができず、邦画を何度だって観てしまう。連続ドラマ『バスケも恋も、していたい』も多少は期待したものの、タイアップ全開で引いてしまった。

 さて...『少女』は端的にいってしまえば、世界の広さをあなた(友達)が教えてくれたと締めくくるわけだが、確かにそうである。友達(や人に限らず、映画だって)は自分だけの狭い世界、視界をやや強引にも広げてくれる存在だ。そこに全く異論はない。しかし、その広い世界を否定しているのが、この映画自身なのが残念だ。あらゆる人と人とが、繋がりに繋がって、どこにも飛躍せず、全てが伏線回収的に済まされてしまう。あらゆる出来事の加害者、被害者は既に別のシーンに登場している誰かの友人であり、親子であり、知り合いだからである。

 そこで世界は広いと言われても、「狭すぎるよ...」と言わざるをえない。

 

f:id:takemo1025:20161209192636j:plain『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016年)中野量太

 若手映画監督のオリジナル脚本ということで相当な困難と努力と、映画業界の未来のためにここは過保護に見守ってやるべきとか、いろいろな思いが交差するが、ピンとこなかったのが最初の印象だった。

 冒頭あたりまでの、いくつかのショットは良かった。たとえば、というか主に宮沢りえが自転車に乗って画面に出るときは良かった。が、雲行きが怪しくなるのは、娘を根性論で叩き直すあたり、いや、そこはこの際どうでもいい。実際にはどうでもよくないが、それよりも気になったのは、やはり脚本が伏線回収的(この言葉は好きではないが便宜上使う)になっていることだ。最初のシーン、ベランダで宮沢りえが洗濯物のブラジャーを持ち「まだ大丈夫」と言い、次に娘の誕生日プレゼントに「いつか勝負するときがくるから」と言いブラジャーを渡す、そして娘がある事情で下着姿になり、「お母さん、ありがとう」となる、この一連のブラジャー伏線回収作業は巧みというより、むしろマニュアル通りの作業だろう。手話にしたってそうだ。手話にいたっては号泣を誘うために伏線回収をマニュアル的に用いたといえるだろう。

 最後に見間違いかもしれないが、制服を隠された娘が教室に戻ったとき、革靴なのがすごく気になった。上履きを盗まれたにしても、学校のスリッパがあるだろうし、まず土足で教室には中学生といえども入らないだろう。