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映画と本

『溺れるナイフ』(2016年)山戸結希

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溺れるナイフ』山戸結希

 2016年、小松奈菜は二度、菅田将暉と共演している。『ディストラクション・ベイビーズ』と『溺れるナイフ』である。共に今年劇場公開され、真利子哲也と山戸結希、両者とも注目しておかなければならない監督であることは、殊更に言及しなくても理解していただけると思うが、この二作のに共通するのは、たんに大規模の商業デビュー作を撮ったということだけにはすぎない。

 『溺れるナイフ』の冒頭、夏芽(小松奈菜)は両親が運転する車の後部座席で虚ろな表情をしている。中学生が東京から田舎(浮雲町)へ引っ越すのだから、それも当然、両親にはそもそも芸能活動は反対だったんだと言われたり、うまくやっていけるわよと諭されるが、表情は変わらない。ここでは車に乗っていることが重要である。『ディストラクション・ベイビーズ』では、小松は強引に車に乗せられ、あろうことか後部のトランクに死体さながらに放り込まれ、その後も地獄のような扱いをうけていた。かたや、東京から引き裂かれた身体であり、暴力をうける身体である。しかし最も、小松を車に乗せてはいけない女優であることを実感し、震撼するのは『溺れるナイフ』で、一回目の火祭りの最中に、東京からやってきたという(メガネをかけた自称、民俗学研究者の)筈目に嘘の情報に吹き込まれ、同乗してしまうシーンである。その行く末は言及しないので、ぜひ映画を観てほしい。

 夏芽とコウ(菅田将暉)は共に惹かれ合う関係である。惹かれあいながら、強烈に引き離れていると言ってもいい。二人は常に追いかけっこをしている。映画が孕んだ原理的身振り、追跡といっていいかもしれないが、追跡とは追う理由があり、もちろん追われる理由がある。その追う/追われる、時間の遅延行為によって120分前後の上映時間が決定している。しかし、二人は追いかけっこをしているにもかかわらず、理由が存在しない。もはや、ダンス(=追跡)をしているのだ。森の中で、夏芽が写真集の撮影をしている最中に、コウが木の陰から石ころを投げて、存在をアピールする、そして二人は走り出す。学校の下駄箱で夏芽は写真集ができたとコウに話しかけ、二人は走る。走り出す理由が判然としないとまではいかないが、動きが先に、エモーションがまずなりよりも優先的に駆動するのだ。そのダンスが象徴的にあらわれるのは、火祭りの前に二人が浴衣を着て、街を周回するシーンである。浴衣の着付けが崩れる夏芽を柱に追いやって、帯をキュッと締めるコウ、そして立ち止まって考えることを拒否するように、言葉を交わしながら、二人にぶつかる人がいないのが当然のような不自然さで、人で溢れる道を縦横無尽に周回する二人(とカメラ)。前述した、森の中の追いかけっこも同様だ。

 しかし、追跡とダンスがイコールで結ばれずに、ただそれが緩慢な追跡になってしまっているのが、二人が高校に進学し、話すことも、会うこともなくなってしまった後に、久しぶりに再会するシーンだ。二人が船に乗るまでのこの追跡のシーンは、歩きながら、エモーションというより、ただ話しかけられずにいるダラダラとした追跡が展開される。だからといっていいだろう、船に乗った二人に決定的な決裂をもたらしてしまい、これより先は大友(重岡大毅)が夏芽の支えとなっていく。

 

 大友とコウ。そして夏芽。夏芽が車によって引き裂かれる身体ということを述べたが、では、彼女が最も幸福であること、映画が最も幸福的な瞬間に包まれるシーンがいつなのか。それはラストシーンのコウとバイク(二輪車)で二人乗りをしているシーンだろう。海も山も...(以下、あやふやなので書かないが複数の単語を二人で目一杯叫ぶ)と叫んでいるシーンが非常に印象的だ。もっと前にも、中学校へ自転車で登校するシーンで、夏芽とコウはそれぞれの自転車に乗り、抜いたり、抜かれたり、立ち漕ぎをしたりするシーンがあった(『溺れるナイフ』劇場パンフレットで小松奈菜は、このシーンが好きだと言っている!)。そして、やはりラストシーンの前に、同じように二人が自転車(二輪車)で二人乗りをして、叫びながら疾走しているシーンがあるのだ。

 いずれも夏芽とコウが二人乗りをしているシーンである。しかし、大友も夏芽と二人乗りをしている。高校の昼休み、校庭で一緒にお弁当を食べてから、二人は一緒に二人乗りで下校するが、この二人乗りは唐突に終わってしまう。大友が自ら、夏芽よりも道端の赤い花に興味を示し、自転車を放り出すように、花に吸い付いてしまうのである。