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diary

映画と本

『カルテット』1話〜4話

 低調な視聴率のテレビドラマについて、よくいわれる原因の分析がある。「内容が小難しくて、なにをしたいのか分からない」「物語の先がみえない」だいたい視聴率の悪いドラマはこのような原因だといわれることが多い。これらがどのくらい信用できるのか分からないが、まあそういう意見もあるよね、程度には理解できる人も多いと思う。そして、それに続くのが「そもそも理解する必要があるのか?」という問いである。つまりは、分からないものを分からないままに肯定すること、そのまま楽しむことがなぜ許されないのか。多くの作家を悩ますであろうこの問題に、とりわけテレビドラマはぶつかるのだと思う。なにせ、映画(あらゆる芸術ジャンルに置き換えてもよい)などに比べると、想定する視聴者数、視聴環境、年齢層がバラバラに散らばっている。だからテレビドラマは「ながら見でもついていける話」や「あわよくば途中参加でも分かる話」が好まれるし、作る側もそれがテレビドラマというものなんだと定義する人もいるのではないだろうか(憶測です)。しかし、だとしてもそれは個人の定義のすぎない。『カルテット』はただただ、テレビドラマという枠をこえ、たんに作品がテレビで放送されているという状態をさらけ出す。冒頭に述べた作家の悩みをここで繰り返す、「分からない」ことを垂れ流し続けているのだ。どういうことか。以下で、具体的なシーンをあげていきながら検討してみる。

  そもそも「分からない」とはどういうことか。(ここからはドラマそのものの構造について書くので、興味のない方は***部分以下から読むことをおすすめします)現在『カルテット』は4話まで放送を終了している。1話では巻真紀(松たか子)、2話は別府司(松田龍平)、3話は世吹すずめ(満島ひかり)、4話は家森諭高(高橋一生)のエピソードを個々にフォーカスし、なぜ4人は偶然カラオケボックスで一様に出会ったのかを徐々に紐解いていく。やがて、あれは偶然ではなく、巻を除く3人がそれぞれの計画、事情により計算された出会いだったことが分かる。ただ、4人が揃いも揃って鉢合わせたのは偶然だろう。では、果たしてこれからどうなっていくのか筆者は検討がつかない。単純にいくらか予想することはできるかもしれないが(後に詳述したい)、正直4話までは個々の人物の愛らしさが描かれただけで、この先どうなるか、一切の情報が伏せられているといえるだろう。それが分かりにくさの原因だと断言することなどできないが、一つの要因になっているだろう。しかし裏を返せば、舞台は整ったとみることもできる。それは本作の脚本である坂元裕二の過去作を参照することで証明できそうだ。

 直近でいえば、2015年1月〜放送のドラマ『問題のあるレストラン』と、2016年1月放送〜のドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』を思い出してみたい。と、その前に前クールでひときわ、いや世間を席巻した『逃げるは恥だが役に立つ』を参照してみることからはじめる。とはいえ、『逃げ恥』のみならず、ぼんやりとでもいいのでテレビドラマといわれて思い浮かぶ、ドラマのかたちを想像してほしい。たとえば『逃げ恥』ならば、2人の男女がいる。もちろん、ここにベテラン刑事と新米刑事とか、親と子とか、そういう組み合わせの人物らを当てはめてみてもいい。1話で出会い、その後2話、3話、4話....と、あらゆる事件、出来事が起きたり、巻き込まれたりしていたと思う。それは同僚が家に来るとか、二人で旅行にいくとか、実家に帰るとかである(刑事ドラマなら10話完結で10の事件を解決するとか)。では、『問題のあるレストラン』はどうであったか。ビストロで働く7人の従業員に1人1話の形式で進めていたはずだ。*1もちろん1話から最終話に繋がる一連のテーマがあったうえに、重ねて1話に1人(従業員の)主役がいたということである。だから、出来事<人物の作家である。坂元裕二ヒューマニズム的な作家なのだと単純に判断するのは早計だろう。ただ『問題のあるレストラン』がそうだったというだけである。次に『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の転換部だ。多くの視聴者が驚き、ショッキングな記憶を刻まれたであろう、震災以後の第2章だ。ドラマは震災以前/以後にハッキリと切断され、主人公・曽田練(高良健吾)の舌打ちに途方もない絶望を覚えると共に、一体このドラマは何をやろうとしているのか、文字通り打ち震えたはずだ。さて、つまり、『問題のあるレストラン』の話法であった、1人1話形式は今まで『カルテット』をみてきたとおりで、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の前半部と後半部の大胆な変化がここでおきてくるのではということである。ちなみに5話の次回予告では「第1幕、終演ーー急展開の第2幕へーー」とテロップが出ている。

 

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 さて、では、既に長くなってしまったが、ここから『カルテット』の個々のシーンを取り上げてみたい。筆者は本作が「物語の先がみえない」以前にもっと根本的に「分かりにくい」ことを内に抱え込んでいるように思えてならない。

  第1話の...いや、それ以前に視聴者は前情報の段階で既に「分かりにくい」事態に巻込まれている。なんといっても主人公の名前・巻(マキ)真紀(マキ)だ。どうでもいいといえばどうでもいいが、常に苗字で呼んでいるのか、名前で呼んでいるのか不明な状態に視聴者は晒される。実は、それ自体は確かにどうでもいいことだが、ここで主張したいのは、このように視聴者はあらかじめ「分からない」ことをほぼ無条件に強いられていることである。こんなことですら視聴者に理解させてくれない、というべきか。1話の、巻とすずめの出会いのシーンから既にそうである。このシーンは今後のあらゆるシーンを予言しているといってもいい。別府の別荘のある軽井沢に招き込まれる巻と家森、そして既に家に着き、床で寝ているすずめ。4人が主要舞台である家に揃い、さてこれから挨拶しようかと、すずめを起こす男たち。ここまでである。

 すずめは床に配置してあるテーブルの下に頭を突っ込んで寝ているが、既に4話まで観た視聴者ならお分かりの通りそのテーブルの下に盗聴用のボイスレコーダーを設置している。だから、すずめは巻が到着する前にボイスレコーダーを設置している途中で、巻たちが来てしまったために、とりあえず寝ているフリ(このフリは後にも繰り返される)をしているとみることができるし、はたまた巻にとっては床にぶっ倒れている(さながら死体とでも認識できるかもしれない)人だと思ったり、いやこれは単純にすずめは本当に寝ているとみることもできる。しかし、それは4話までみているから、分かること(分からないこと)である。ということは、つまり1話の冒頭のこのシーンが2、3、4...と再び意味を変え、現れてきたり、あるシーンがあるシーンの伏線になっていることを浮き彫りにするのだ。それがドラマそのもの(第1幕から第2幕へ)の転換部にも影響してくるだろう。

 他にも端的な例をあげていくと、ゴミが溜まったベンジャミン瀧田の家(1話)からゴミ問題に発展する別府の別荘(4話)へ、鏡子(もたいまさこ)が話すマジシャンのテクニック(2話)からすずめの父親がマジシャンであることが発覚することへ(3話)、靴下を脱ぐ、履かないすずめ(1話)から巻の旦那が脱いだ靴下、茶馬子が便所サンダルを履いている話(4話)へ...など個別にあげていくとまだあるが、これで明らかになるのは繰り返しになるが、ほぼ必ず、あるシーンが反復されるということである。だから第1幕で謎だったこと、明らかになっていない部分、これまでみてきたシーンが第2幕で反復されるかもしれないということである。カルテット ドーナツホールがベンジャミン瀧田にみた自分たちの将来のように。

 とはいえ、ある行為が、あるセリフが、どのようなかたちで第2幕で影響してくるのか、とても予想するのには困難である。『いつ恋』のように大転回の可能性まで秘めている『カルテット』に一体どんな予想ができるというのか。しかし、これは連続ドラマである。映画はあっという間に120分が経過し、暗闇のなか予想を隣の席の人に喋ることなど(やられたら普通にウザい)できないし、展開を予想する、その行為自体全く頭にない人もいるだろう。しかし敢えて、ここで予想してみたいことがある。いや予想はただの予想だが、その予想に至る実証が『カルテット』の面白さを拡張すると思われるのだ。

 

 

 さきに挙げた、1話の冒頭シーンーーすずめが起きるまでに、『カルテット』の最も分かりにくい部分がある。巻の声が小さいことである。これは思い切った設定だ。しかしよく考えれば、人生において声の小さい相手、あるいは唐突に相手に話しかけられたとき、そうでなくても話しかけられた人に「え?今なんて言った?」と聞き返すことはよくあることだ。この、人生のリアルさを表現する設定はリアルさを出したいなら、分かる。しかしドラマにおいてはルール違反だとも受け取れる。まずどう考えても、声が小さいのは非効率的だ。単純に役者に同じセリフを2度言わせることになり、その分シーンの時間は長くなる。ドラマも映画も時間は無限ではない。ダラダラと配信するネット中継でもあるまい。さらに現在進行形で多くの映画はスペクタクル化し、これまでは到底撮影不可能だったシーンをCG技術で可能にしている。過剰な描写は、いたるところに散見され、弾丸をスローモーションで避けるなどを繰り返していればシーンは長くなる。そうなると必然的に上映時間が長くなる。いま90分前後の映画はそう多くないはずだ。(もちろんCG技術によってもたらせる感激も、驚きも、それは素晴らしいことで、ただここでは時間が引き延ばされていることをいっている)

 やや話が逸れたが、声が小さいというのは時間を引き延ばしてしまうのである。しかし声が小さいことで、巻は意見がはっきり言えない内気な人という印象を受けることはない。もっと違う意味で声が小さいことを利用している。まず、声が小さいと感じるのはドラマのなかの登場人物ばかりではなく、むろん視聴者も巻が何を言ってるのか聞き取れない瞬間がある。いってしまえば、視聴者の怠惰を許さないのだ。常に、何か重要なセリフを聞き逃すのではないかと不安になるとったら大袈裟だが、少なくとも声が小さい瞬間、少々姿勢が前のめりになったりしないだろうか。ではないにしても、何を言ったか分からないままシーンが終わり、後に何を言ったのか判明するのが1話にある。これにはさすがにモヤモヤしたまま判明する瞬間を待たなくてはならない。これが『カルテット』のサスペンスの持続である。

 3話で声の小ささが再び活きてくる。巻とすずめが道路を挟んでこちら側とあちら側で並行に(小)走っているとき、通常の声の大きさなら名前を呼びかけて反応できる距離だが、こと巻の場合そうはいかない。1度や2度じゃ相手に声が届かないのだ。結局このシーンでは巻の声は届き、すずめと合流できた(その後の蕎麦屋のシーンは感涙ものだ)が、声が届くか/届かないかの行方の分からなさと、道路を挟んで二人が並行に走るシーンを成立させる口実にもなっている。

 

転倒

 巻は人生には3つの坂があると言う。上り坂、下り坂、まさか、だと。1話では最後のまさかが時間差で明らかになり(これもある種のサスペンスの持続だろう)、多少とも「いや、そのまんま(予想通り)かい」となった人も多いと思う。転倒とはまさに、まさかである。その体現、まさか=転倒的な意味をもっていると推測すると、まだ納得いかない部分がある。それにしても、皆、転びすぎている。巻の人生論を持ち出すと、上り坂(上)から下り坂(下)に落ちることがまさか(転倒)と解釈することもできる。そう、人が上から落ちるのが転倒(まさか)だとすると、巻の旦那がベランダから、家森が駅の階段から、落ちていることが現時点で明らかになっている。

 

不思議な有朱

 『カルテット』でいまもって謎な人物は来杉有朱(吉岡里帆)だ。元地下アイドルらしい彼女はふいに画面に侵入してくる。カフェで、すずめと鏡子が密会しているときに有朱はふいに訪れる。内偵のすずめは、もちろん内偵であることをバレてはいけない。2話で巻が「街中で見かけたけど、声かけないほうがいいかなって」と他人との距離を測ることを示唆するが、有朱はハローグッバイを言いに2人のもとへやってくる。いとも簡単に距離を踏破(4話のケーキにフォークをさすのにためらうすずめと、迷いなく刺す有朱も同様だ)してみせるのだ。これは完全に2人に対する目配せだ。なぜなら4話のスーパーマーケットのシーンの有朱が恐怖の有朱に変貌するからである。

 個人的にはこの4話のスーパーマーケットのシーンが現時点で最もサスペンスフルなシーンだと思っている。すずめと有朱が2人でスーパーマーケット内を歩き、今度ランチでもしようと約束して有朱だけがレジに向かいその場からいなくなると、今度はすずめの後ろから鏡子が肩を叩き、すずめは巻の旦那(鏡子の息子)は殺されたのではなく、ただ失踪しただけではないかと疑い、契約が決裂気味になり、鏡子が去っていく。この後、カメラはバックしながらすずめを正面から撮っているが、ふと、すずめはスーパーマーケット内の曲がり角で足を止める。その瞬間カメラが右に振られると、そこにいるのは、いないはずの有朱の姿だった。有朱はすずめに「ちょっと、1000円貸してもらえません?」と言うが、金額は「あ、2000円、あ、5000円」と跳ね上がっていく。これは口止料を要求している。ゆすりである。

 このシーンの不隠な音楽もさることながら、すずめを正面から撮るところから、有朱を画面に入れるまでのワンカットは見事だ。いないはずの人がいる。聞かれてないはずが聞かれている。見られてないはずが見られている。別府(宇宙人)が巻を、家森が巻の旦那を、鏡子がすべての会話を、有朱がすずめと鏡子を、秘密は既にバレているんだと、ギュッと凝縮しているシーンだ。

 ここまで、声、転倒、不思議な有朱と見てきたが、筆者はこの3つの要素がどうも第2幕でなんらかの作用を起こしてくるのではないだろうかと思っている。いずれにせよ、作用しようがしまいが、第1幕でこれらの要素は『カルテット』の重要な演出、設定になっていたはずだ。

 

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 さて、ここからは『カルテット』にみられる、ある映画たちの断片をみていきたい。既に指摘したスーパーマーケットのワンカットや、家の窓辺で外を眺めるすずめ、帽子を拾った後ベンジャミン瀧田を見送る主演4人たちなど特筆するべきショットがいくつかある。正直こんなショットを撮られたら、映画とは一体...と頭を抱えることもしばしばある。ショットへの並々ならぬ固執ぶりは、先に述べた巻とすずめの道路越しの並走シーンの実現を持ちだしてもいいだろう。

 まず、2話からみていこう。別府が主役に据えられる2話は、別府の会社の同僚である九條さん(菊池亜希子)の結婚式をめぐる話だ。九條さんと巻とのあいだをフラフラと彷徨する別府も見ものだが、結果的に式場の中で花嫁を見守ることになる別府をみて、逆説的に思い浮かぶ映画がある。式場に乗り込み、花嫁を奪う映画『卒業』(1967年)である。花嫁を送り出す別府だが、その前のシーンーー九條さんの家の屋上で一緒にカップラーメンを食べてから、家に帰る別府がトボトボと商店街を歩き、割れたメガネをかけるところは否応なく『わらの犬』(1971年)の強烈なビジュアルが想起される。どちらもダスティン・ホフマンの主演映画だ。なお、4話の家森にも、これも逆説的だが『クレイマー、クレイマー』(1979年)のダスティン・ホフマン*2を重ねられる。

 4話の、茶馬子→半田→家森へと続くビンタは『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)の、とりとめのないスピードでそれはもう起こってしまったのだと、呆然とみつめるほかない顔面への三連パンチをやりたかったのではないだろうか。

*1:「…手前勝手な法則がある。…90分あれば3人の関係は撮れる。そこにひとが加わると、ひとりあたり15分ずつ映画は長くなってゆく…。17人全員を描きたいと思った『ハッピーアワー』が300分を超えるのも必然的なことだったのだ。」(p296~297『カメラの前で演じること』濱口竜介)この発言と、1人1話的な物語の作り方、それだけを抽出して考えると、濱口監督の連続ドラマを観てみたいと思えてくる。

*2:カルテット!人生のオペラハウス』(2013年,原題 Quartet)はダスティン・ホフマンの監督デビュー作である。